新型コロナウイルス感染症の感染拡大が始まってほぼ1年が経過しました。
新型コロナウイルス感染症によって、これまであまり注目されてこなかった保健所の存在意義が改めて強く印象付けられるとともに、保健所がコロナ関連業務にかかりきりになることで生じる弊害も浮き彫りになりました。
そこで今回、特に大きな影響を受けたとされるHIV感染症について、日本における最新の状況、世界の動きなど、HIV・エイズの啓発・支援を行っている特定非営利活動法人aktaの岩橋恒太理事長にお話を伺いました。
特定非営利活動法人akta
岩橋 恒太 理事長
1. 日本のHIV・エイズの現状
感染の8割以上が男性同性間
コロナ禍前、2019年のデータですが、厚生労働省のエイズ動向委員会の報告によると、日本では1,236人の新規HIV感染者・エイズ患者が報告されています。このデータから、日本におけるHIV感染には二つの大きな特徴が伺えます。一つは感染経路に関する特徴で、約67%(831人)が日本国籍の男性同性間の性的接触によるものでした。もう一つの特徴は感染地域で、約33%(406人)が東京都からの報告でした。感染経路については、HIV陽性者本人からの自己申告と実際の経路にはギャップがあることもあり、診察に当たっている医師らによると、「日本の場合、実態は8割以上がMSM(男性とセックスする男性)からと考えてよい」と言われています。
新型コロナの影響で、HIV検査数が激減
新型コロナウイルス感染症の拡大が始まって、HIV対策上最も大きな影響を受けたのはHIV検査でした。我が国の場合、HIV検査を行う際に最もアクセスしやすいのが、無料・匿名で検査を受けることのできる全国の保健所だったのですが、その保健所がコロナ対策の拠点となったために、HIV検査に対応できなくなりました。全国の保健所の「HIV検査件数四半期推移」のデータを見ても、2020年に入って第1四半期、第2四半期と検査数の急激な減少は明らかで、新型コロナの感染拡大と符合した動きになっています。過去にも、例えば新型インフルエンザの流行や東日本大震災の影響で検査数が減少したことはありますが、それらとは比べ物にならないほどの落ち込みです。
コロナ対策は勿論大事ですが、HIVも性感染症も、決してこの世からなくなったわけではありません。コロナはこれからワクチンなども普及し、収束に向かうかもしれませんが、地域の中でこのままHIV検査を受ける機会が無くなってしまえば、「エイズを発症して初めてHIV感染が分かる」という人たちが増えてしまうかもしれない。これはHIVの感染予防や早期発見、早期治療、予後にとって非常に重大な問題となります。検査を受けたい人のニーズにどう対応するのか、検査の提供側の論理だけでなく、市民の権利としての受検の機会をどう考えるのか―という大切な問題を提起しています。
第155回エイズ動向委員会資料より
多様な検査機会の確保を
ここで海外に目を転じてみましょう。日本より新型コロナウイルス感染症によるダメージが大きいと言われる英国ですが、HIV検査への影響は一時的なもので、大きくは出ていないようです。というのも、「英国では郵送検査や町のクリニックの活用、さらにはセルフ・テスティング(ST)という新しい手法の導入など、普段から検査機会の多様化に取り組み、準備してきたからだ」と指摘されています。また、昨年英国では感染症への関心の高まりもあり、HIV感染の影響を受けた80年代のゲイコミュニティを描いた「It’s a sin」というTVドラマシリーズが放映されると人気を集め、HIV検査キャンペーン期間中の検査数が前年の4倍に上昇したとも伝えられました。
それでは、なぜ日本で郵送検査などが普及しないのでしょうか?もともと郵送検査など、保健所やクリニックなどに行く必要のない検査、いわば“サイト(場所)に依存しない検査”には各国共通の課題がありました。例えば、検査の精度管理が保証されていないという問題、さらに、郵送検査というのはあくまでスクリーニングのための検査であり、この後、確定検査、医療機関での治療と、次のステップに進むのは全て自分でやらなければいけない点などです。加えて、日本の郵送検査は一定の割合で団体検査という形で行われており、例えばセックスワーカーの場合、検査結果は個人ではなくお店側に連絡が行くという、人権上の問題もあるのです。しかし全国に整備されている保健所や公的検査機関に加えて、新しいことを広範囲で取り組まなくてはならない。コロナ禍がこれまでの考えを見直す良い機会になりました。
コロナ禍でのMSM向け検査戦略とは?
保健所でのHIV検査が依然として重要であることに変わりはありませんが、コロナ対応で保健所の検査自体が止まってしまったこと、もともと保健所の検査は平日の日中しか利用できない、対面での検査を忌避するMSMには届きにくい―などの課題があったことなどもあり、「従来の保健所での検査以外にも検査機会の確保が重要である」として、『コロナ禍でのMSM向け検査戦略』を私たちは検討してきました。新たな戦略では、郵送検査や民間医療(クリニック)の活用が有効とされ、効果的な展開のため、①コミュニティセンターやNGO、NPOがMSM向けスマホアプリ広告を使って企画・発信し、広域に展開する、②当初から行政を巻き込む、③地域の医療のキーパーソンと連携し、クリニックとの連携を広げる―などの方策を打ち出しました。
このことに先立って、私が理事長を務めるaktaでも『HIVcheck』という、検査キットを手渡しで配布する取り組みを行いました。2020年1月末までの1年半の取り組みでは、総配布数中の検査実施率82%、陽性判明率割合3.83%という高い成果を上げており、コロナ前ではありましたが地域のコミュニティセンターが核となって検査機会を提供することの意義を確認することができました【注】。そこで、2020年度からは、新たな試みとして、全国9地域が参加して、『MSM ALL JAPANチーム』として、MSM向けHIV・梅毒郵送検査キットプロジェクトを厚生労働省の研究班の枠組みでトライアルとして実施中です。
【注】:aktaの活動の詳細に関するインタビューはこちらをご参照ください。
HIV・梅毒郵送検査キットプロジェクトの紹介バナー
2. 進化する世界のHIV・エイズ対策
『コンビネーション予防』の考え方
ところで皆さんは、HIV・エイズに対する世界の認識、取り組みが大きく変わってきたことを、どの程度ご存じでしょうか?UNAIDS(国際連合エイズ合同計画)は、“Ending AIDS”をスローガンに掲げ、「公衆衛生上の脅威としてのエイズ流行を、2030年までに終結させよう」と呼びかけています。“Stop AIDS”ではなく、“Ending AIDS”と言い換えているところに実は大きな意味があり、「エイズ撲滅」を叫んでHIV陽性者を排除するのではなく、HIV陽性者であっても、健康で長生きできる世界を実現しようという想いが、そこに込められています。それを実現するためにUNAIDSが提唱しているのが、『コンビネーション予防』という考え方で、「人間尊重に立脚し、それぞれのコミュニティの流行を理解したうえで、行動学的、生物医学的、構造的戦略の3つのカテゴリーから異なるツールやアプローチを組み合わせることで、その時々の予防ニーズに対応し、新規の感染を減少させること」と定義づけています。まさに絵の具のパレットやツールボックスのようなイメージで、その時々に必要なHIV予防のツールを選択して使うという考え方です。
『U=U(UイコールズU)』のメッセージ
コンビネーション予防を推進するうえでキーとなったのが、『U=U』のメッセージです。治療効果の高いHIV治療薬が普及し、国際的な研究のエビデンスをしっかりと積み重ねたおかげで、「Undetectable、すなわちHIVウイルスが検出限界未満に抑えられていれば、Untransmittable、すなわちHIVは感染しない、HIV陽性者であってもセックスで感染を渡すことはない」ということが科学的に証明され、『U=U』がHIVの新常識となったのです。このことはHIV陽性者にとっては実に大きなことでした。我が国においても、日本エイズ学会がこの考えに基づくキャンペーンに、いち早く支持を表明しています。
PrEP(プレップ)が重要な選択肢に
もう一つ、コンビネーション予防にとって、重要な選択肢となっているのが、PrEP(曝露前予防)です。これは、HIV非感染者が感染予防のために抗レトロウイルス薬を服用するもので、米国のCDC(疾病予防管理センター)が2014年に推奨のガイドラインを発表し、WHOもこれに続きました。但し、PrEPは誰にでも使えるものではなく、HIV感染リスクのある対象に限定されています。感染予防としてはコンドームを使用することが大事ですが、コンドームを使えない場合に、HIVの予防の面でPrEPという選択肢があることは、コンビネーション予防の観点からも重要なのです。しかし、使われる抗レトロウイルス薬は、長年エイズ治療薬として使われているものですが、残念ながら日本では、予防目的で使うことは認められていません。因みに、東アジアでPrEPが承認されていないのは、日本だけとなりました。
勿論、『U=U』のメッセージやPrEPが広がることによるリスクも考えなければなりません。実際に、PrEPが普及することで、コンドームが使われなくなり、梅毒など他の性感染症が増えた地域もあるのです。
これからも、コンビネーション予防のメッセージを発信し、選択肢を増やすことは大事ですが、これと同時に、正しい情報を得て自ら吟味し、それを使いこなすという、受け取り側の『ヘルスリテラシー』の力をコミュニティの中で育てていく―という新たな課題に取り組んでいく必要があると言えます。
3. 新たな国際ターゲットに向けて
2020年までの目標 『90-90-90ターゲット』
UNAIDS 90–90–90 – An ambitious treatment target to help end the AIDS epidemicより
先ほど紹介した「2030年までに、公衆衛生上の脅威としてのエイズ流行を終結させる」という目標に向け、2014年にはUNAIDSによって、3つの90%を達成する中間目標『90-90-90ターゲット』が設定されました。具体的には、2020年までに①HIVに感染した人の90%が自らの感染を知ること、②HIV感染を知った人のうち90%が抗レトロウイルス治療を受けること、③治療を受けている人の90%が体内のウイルス量を検出限界以下に抑えられていること―が目標となりました。
新たな『2025年エイズターゲット』では、人びとを中心に
残念ながら、2020年の総括では、世界的に「90-90-90」の目標は達成することが出来なかったと結論付けられましたが、UNAIDSでは、コロナの経験も踏まえ、今後5年間の中間目標として新たに『2025エイズターゲット』を設定し、昨年11月、世界エイズデー2020報告書「人びとを中心にすえ、パンデミックに打ち勝つ」の中で公表しました。
最大の特徴は、HIV陽性者及びHIVの高いリスクに晒されているコミュニティを対策の中心にすえたことで、包括的サービスの提供、それぞれの事情に合わせたサービスの統合、サービスが可能な環境を妨げる社会的・法的な障壁の除去-の3つのカテゴリーのもとで、「6つの95」などの指標を打ち出しました。
世界エイズデー2020報告書「人々を中心にすえ、パンデミックに打ち勝つ」より
UNAIDSのウイニー・ビヤニマ事務局長は「これらのターゲットは、HIVやCOVID- 19といったパンデミックの高いリスクにさらされ、社会から疎外されがちな人を中心にすえることで、パンデミックの拡大を促す不平等の解消をはかるものだ」と述べています。詳細な説明は割愛しますが、人を中心とするアプローチが大事であり、それを社会や地域で支えていくことが大事であることが、改めて強調されました。
日本においても、これまでのHIV対策を振り返り、今後の政策のあり方、NGOなどの活動のあり方を考える際の指針として、大いに参考とすべきものだと思います。
4. 結び
以上、「HIV対策を巡る状況は進化を遂げ、大きく変わっている」ことをお話ししてきましたが、残念ながら世間でのHIVに対する関心は薄れており、認識も低いままです。2018年、内閣府が実施した「HIV感染症・エイズに関する意識調査」では、いまだにエイズを「死に至る病である」と回答した人が52.1%、「原因不明で治療薬がない」と回答した人も33.6%いました。一方で、HIV・エイズの最新情報については、「他の人へ感染させる危険性を減らすことができる」が33.3%の認知率、「適切な治療でほぼ同じ寿命を生きられる」が26.5%の認知率、「最新情報は全て知らない」が35.1%と最も多い回答という結果でした。
このような現実と認識のギャップを埋めるためには、HIV・エイズに対する意識と情報のアップデートを図る必要があります。私たちのようなHIV・エイズの啓発・支援に関わっているNPO、NGOが引き続き発信を続けていくことは勿論ですが、教育の場を含め社会全体で取り組んでいくべき問題だと感じています。
(取材:COSMO Healthcare 2021年2月25日)